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徳次は一種くさめをする前のやうな、煙けむたげな表情になりながらわき見をしたり、房一を眺めたり、どぎまぎして答へた。
河原町の評判では、徳次は怠け者といふことになつていた。恐らくそれは、河から上つた徳次が水をはなれた河童のやうになすところを知らぬげなぽかんとした様子に起因していたのだらう。彼は怠け者ではない。彼にはきつと、自分の気に向いた仕事にだけ熱中する子供染みた無邪気さが他の人よりはよけいに残つていたのだ。その証拠には、河に下り立つてからの彼の動作には、別人のやうにきびきびした手順のよさと云つた風なものがあり、間もなくわき目もふらずに働きはじめたのを見ても判る。冬近い時候なのに、額には汗が流れていた。彼は時間のたつのを忘れていた。
「それでは、又あらためて伺ひます」
半シャツの男は房一の前に来て、はじめてお辞儀らしい格好をした。
道平はゆつくりと首を動かして訊いた。
房一は微笑しながら答へた。彼はそのとき、今日が自分にとつてのはじめての往診だといふことを思ひ出した風だつた。その内心の悦ばしさは厚ぽつたい唇のはしに押へきれず浮び、いくらかはにかんだ風に見えた。この羞はにかみの色は浅黒い饅頭のやうな房一の顔に現れたものだけに、何となく滑稽な感じだつた。
大した川でもないのにこんな風に所々でいろんな名があるのは、もとより必要があつて生じたのであらうが、一面に於てはそれぞれの水域に住む人達の生活がどんなに川と密接に結びついているものかを語り、同時に、吾々が自分の子供に思ひ思ひの愛称をつけるやうに、それぞれの呼び方の中に彼等の川に対する愛情を示していると考へられる。で若し誰か川好きな男、たとへば徳次などに向つてこの川をつまらぬとでも云はうものなら大変である。
「はあ、はあ」
房一は思はず笑ひ出した。
間もなく彼は、こゝからよりもあの路からの方が、河原で一人で働いている自分をはるかに見つけ易いことに気づいた。瞬間彼は、この広い河原に自分の隠れこむ場所はないかと探すかのやうに、きよろきよろあたりを見まはした。だが、自転車の男は崖上の路に気をとられているのか、まだこちらに気がつかないやうだつた。徳次は下向きになつた。見まいとした。けれども、何かしら気になつて、顔を紐か何かで上うは向きにひつぱられるやうであつた。
房一は狡猾な顔で老医師を見た。だが、前よりなほ気楽げな様子になつた正文は、房一の方をろくに見もしないで、
又走り出して、草の中に鼻を突つこんだ。が、今度はすぐもどつて来た。房一は緊張した表情をつくつて、その背をつかんでぐつと押した。
「何でもいゝから早くしてくれ。路をまちがへて大廻りしちやつたんだ」